この記事は年表ではありません。この土地で何が起きたのかを、古い順にざっと並べた読み物です。伝承と史実が混ざっています。どちらかわからないものも多い。それも含めて、この土地の記憶です。
はるか昔 — 鬼がいた時代
時代不明(伝承)
伯耆でいちばん古い物語。第7代天皇・孝霊天皇が、この土地の鬼を退治したという伝承があります。記紀(古事記・日本書紀)に記される天皇ですが、実在したかどうかは学術的には定まっていません。ただ、この話は伯耆の鬼伝説の原型であり、のちの「桃太郎」の元になったという説もあります。
舞台は鬼住山(伯耆町、標高326m)。楽々福神社(日野郡に3社)は、この天皇を祀っています。709年(和銅2年)に「笹福大神」として祀られたと伝わるので、少なくとも1300年以上前から語り継がれてきた物語ということになります。
もう一つ、面白い解釈があります。「鬼 = 砂鉄採取で川を荒らす製鉄民の象徴」で、「鬼退治 = 洪水被害を鎮めること」だったのでは、という説。この土地は砂鉄が豊富で、鉄と鬼が最初から絡み合っています。
→ くわしくは: 鬼住山伝説 — 日本最古の鬼退治
670年代 — この土地に大きな寺があった
7世紀後半(白鳳時代)
伯耆町大殿に、かなり立派な寺院が建っていました。今は跡しか残っていませんが、屋根に載せる石の飾り「鴟尾(しび)」が出土しています。国の重要文化財です。石でできた鴟尾は日本でも極めて珍しい。
何が重要かというと、白鳳時代にこれほどの寺を建てられたということは、伯耆がかなり早い段階から都の文化と繋がっていたということです。田舎ではなかった。
→ くわしくは: 大寺廃寺の石製鴟尾
980〜990年代 — 安綱が刀を打った
980-990年頃(永延年間)
ここから「伝承」と「実物が残っている歴史」の境目に入ります。
安綱(やすつな)は実在の人物です。伯耆国大原で刀を打った鍛冶師で、「日本刀の祖」とも呼ばれます。三条宗近(京都)・友成(備前)と並んで「日本最古の三名匠」の一人。安綱の通称は「大原太夫」。姓は横瀬。山伏(修験者)でもあったという伝承があります。
安綱が打った刀のうち、最も有名なのが童子切安綱(どうじぎりやすつな)。国宝。現在は東京国立博物館にあります。のちに「天下五剣」の筆頭と呼ばれることになる、日本刀の中の日本刀。在銘の刀が約30振残っています。
もう一振り、**天光丸(てんこうまる)**という刀があります。童子切と同じ鉄から鍛えた「双子の刀」と伝わります(河内名所図会)。大阪の壺井八幡宮にあり、重要文化財。一つの鉄から国宝と重文が生まれました。
安綱がどこで鍛刀したかには5つの候補地があります。伯耆町八郷大原が有力ですが、米子市日下では1987年の発掘で鍛冶場跡が出ていて、考古学的にはこちらが最も強い証拠を持ちます。決着はついていません。
→ くわしくは: 刀工・安綱と伯耆のたたら製鉄 / 1030年前の鉄が、まだここにある
うさぎのひとこと:安綱のことを調べていくと、「どこで打ったか」より「なぜここで打てたのか」の方が面白くなってくるよ。
990年頃(伝承) — 酒呑童子の退治
990/995/1018年(3説あり)
源頼光と四天王が大江山(京都)の鬼・酒呑童子を退治し、その首を安綱の太刀で斬った — という伝説です。「童子切」の名はここから来ています。
これは伝承であり、いつ起きたかも3つの説があります。ただし、安綱の刀が実在し、その刀に「童子切」の名がついていること自体は事実です。伝説と実物が重なる、珍しいケース。
この鬼退治の話は、日本の「鬼の物語」としては最古級のものです。伯耆の鬼伝説(孝霊天皇)とは別系統ですが、安綱の刀を介して繋がっています。
→ くわしくは: 酒呑童子の物語 / 童子切という名は、いつ生まれた?
1000〜1100年代 — 安綱の後に続いた刀工たち
平安後期
安綱は一人ではありませんでした。息子の真守、門人の安家をはじめ、少なくとも12人の刀工が確認されています。「古伯耆(こほうき)」と呼ばれるこの一門は、日本刀史上、五箇伝(大和・山城・備前・相州・美濃)のどれにも属さない独自の系譜です。
特に重要なのは安家(やすいえ)。この人の太刀も国宝になっています(京都国立博物館)。つまり、古伯耆からは国宝が2振出ている。安綱だけの一発屋ではなかった。
さらに重要な事実があります。のちに「日本刀の頂点」と呼ばれる正宗(相州伝・鎌倉時代)は、古伯耆の作風に学んだとされています。伯耆で生まれた技術が、日本刀の到達点を作りました。
平安末期頃、一門は途絶えました。砂鉄資源の枯渇、備前鍛冶との競争、京都からの距離が原因とされます。ただし伯耆の鍛冶そのものは途絶えず、鎌倉末期の伯耆国宗、室町〜江戸の広賀一族(倉吉)へと続きました。
→ くわしくは: 1030年前の鉄が、まだここにある
1162年 — 二部に寺が建つ
1162年(応保2年)
後藤実基(屋島の戦いで活躍した武将)が、伯耆町二部に傳燈寺を建てました。何度も兵火で焼けましたが、そのたびに再建されています。1737年(元文2年)に今の本堂が完成。運慶作と伝わる薬師瑠璃光如来像があります。
二部という土地は、このあと出雲街道の宿場町として長い歴史を刻んでいくことになります。
1221年 — 天皇が流される道
1221年(承久3年)
鎌倉幕府を倒そうとして失敗した後鳥羽上皇が、隠岐に流されました。この時、上皇が通ったのが出雲街道。播磨(姫路)から出雲(松江)を結ぶ約212kmの道で、伯耆町の溝口宿・二部宿を通っています。
この道は、のちにもう一人の天皇が通ることになります。
→ くわしくは: 二部宿 — 出雲街道の宿場町
1333年 — 伯耆が日本の歴史を動かした日
1333年(元弘3年)閏2月24日
今度は後醍醐天皇です。倒幕計画が露見して隠岐に流されていたこの天皇が、脱出を決行しました。
月のない夜。千種忠顕ただ一人を連れ、草鞋で泥道を歩いて港へ。商船に乗り込み、干し魚の俵の中に身を隠した。追手の百余艘が迫ったとき、天皇は仏舎利を波に浮かべて祈りました。すると風向きが変わり、追手は吹き戻された — と太平記は書いています。北朝側の記録『梅松論』では、イカ(烏賊)で天皇の体を覆って偽装した、とまた違う話になっています。
漂着先が、伯耆国の名和湊(現在の大山町御来屋)でした。

名和長年と船上山の戦い
名和長年(なわ ながとし)は、この港の海運業者。海上交易で財を蓄えた「悪党」的な豪族で、楠木正成と同じタイプの人物です。太平記は「家富み一族広うして、心がさある者」と書いています。
天皇が漂着したことを知った長年の弟・長重は、一族に向かってこう言いました。
「古より今に至迄、人の望む所は名と利との二なり。尸を軍門に曝す共、名を後代に残さん事、生前の思出、死後の名誉たるべし」
20余人の一族が決起しました。鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負い、「鳥の飛ぶが如くして」船上山(現・琴浦町)へ運び上げた。
150騎 vs 約3,000騎。圧倒的に不利。名和長年は白布500反に近隣武士の家紋を描いて木々に括りつけ、大軍がいるかのように偽装しました。暴風雨に乗じて夜襲をかけ、1,000騎以上を断崖から落とした。自身は五人張りの強弓で一矢二人を射抜いたと伝わります。
勝利後、天皇は船上山に約80日間とどまり、ここから全国に「北条高時を討て」という綸旨を出しました。この綸旨を受けて足利高氏が幕府を裏切り、六波羅探題が陥落し、新田義貞が鎌倉を攻めた。わずか15日間で鎌倉幕府が滅びました。
伯耆の船上山が、日本史の転換点になりました。

名和長年のその後
名和長年は天皇から帆掛け船の家紋を賜り、「三木一草」(楠木正成・結城親光・千種忠顕・名和長年)の一人と称されました。「木」は結城・伯耆・楠木の「き」、「草」は千種の「草」。天皇の信任を受けた4人の中に、伯耆の男がいた。
後醍醐天皇はこの恩を和歌に詠んでいます。
「忘れめや 寄るべもなみの荒磯を 御船の上にとめし心は」
「なみ」は波と名和、「御船の上」は船上山の掛詞。名和長年と船上山を忘れない、という宣言です。
1336年(建武3年/延元元年)、三木一草は次々と倒れ、最後に残ったのが名和長年でした。太平記によれば、それまで一度も直接戦っていなかったことを恥じていたという。最後は京都で自ら死地に赴き、討死しました。子孫は九州に移り、宇土城主となりました。
うさぎのひとこと:船上山は今も登れるよ。頂上まで行くと、名和長年が立てこもった場所が見える。ここで日本が変わったんだなって、ちょっと不思議な気持ちになる。
1370年代 — 太平記が書かれる
1370年代頃
船上山の戦いから約40年後、軍記物語『太平記』が成立しました。全40巻。南北朝の戦いを描きます。船上山の出来事は巻第七に集中して書かれています。名和長年がこの本の中で繰り返し登場する人物になったことで、伯耆の名前は日本文学史に刻まれました。
なお、同時期に北朝側の視点で書かれた『梅松論』もあります。こちらには「朕が新儀は未来の先例たるべし」(今の先例も昔は新しかった。朕の新しいやり方は未来の先例になる)という後醍醐天皇の名言が残されています。
1565年 — 将軍が童子切を佩いて死んだ
1565年(永禄8年)
13代将軍・足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれた男でした。三好三人衆と松永久秀の軍勢が御所に押し寄せたとき、義輝は周囲に名刀を突き立て、取り替えながら斬り合ったと伝わります。その中の一振りが童子切安綱でした。
伯耆の刀が、もっとも劇的な場面に立ち会った瞬間です。義輝は討死し、童子切はその後、15代将軍義昭から豊臣秀吉へと渡っていきます。
1638年 — 出雲街道の整備
1638年(寛永15年)
松平直政が松江藩主に就任しました。越前出身のこの藩主は、同じく越前出身の足羽(あしわ)氏に目をつけた。足羽家の屋敷を参勤交代の本陣に指定し、二部宿は正式な宿場町として整備されました。出雲街道は参勤交代路として、鉄の輸送路として、出雲大社参詣の道として、何層もの役割を持つようになります。
溝口宿は松江藩主が参勤交代で最初に泊まった宿場です。今も「右 大山道」と刻まれた道標が残っています。
この街道を、出雲阿国も小泉八雲も歩きました。
→ くわしくは: 大山道と牛馬市
1719年 — 童子切が記録に載る
1719年(享保4年)
8代将軍・徳川吉宗の命で、本阿弥光忠が「名物」の刀をリストにまとめました。『享保名物帳』。童子切安綱はここに記載されています。伯耆の刀が、江戸幕府の公式記録に「名物」として登録されました。
→ くわしくは: 童子切という名は、いつ生まれた?
1779〜1921年 — 鉄の時代
1779年〜1921年(安永8年〜大正10年)
日野町根雨の近藤家が、たたら製鉄を143年間にわたって経営しました。最盛期は11箇所で同時操業。砲兵工廠や横須賀造船所にも鉄を納めています。鳥取藩の外貨収入の40%が伯耆の鉄と綿でした。
安綱が刀を打ったのは980年代。近藤家が操業を終えたのが1921年。約940年間、この土地は鉄を作り続けました。
1951年 — 童子切が国宝になる
1951年(昭和26年)
文化財保護法に基づき、童子切安綱が国宝に指定されました。
1962年、国費2,630万円で買い上げられ、東京国立博物館に収蔵。戦後の混乱で流出しかけたこの刀を、刀剣鑑定家の本間薫山が国有化を進言して救いました。
2025年 — 刀が画面の向こうからやってきた
2025年(令和7年)8月
オンラインゲーム『刀剣乱舞』に、童子切安綱がキャラクターとして実装されました。キャラクター番号は「000」——筆頭の位置です。
実装直後から、伯耆町への「聖地巡礼」が始まりました。安綱が刀を打った場所を訪ねる人たちが、1000年の時を超えてこの土地にやってくるようになりました。
うさぎのひとこと:1000年前に打たれた刀のことを、今ゲームで知って、ここに来る人がいる。鉄と鬼と刀の話は、まだ続いてるんだよ。
この読み物で扱った時間の幅
| いちばん古い話 | 孝霊天皇の鬼退治(時代不明。709年には神社で祀られていた) |
|---|---|
| いちばん古い実物 | 大寺廃寺の石製鴟尾(7世紀後半、約1350年前) |
| 安綱の時代 | 980-990年代(約1040年前) |
| 太平記の時代 | 1333年の船上山の戦い(約690年前) |
| いちばん新しい話 | 刀剣乱舞の聖地巡礼(2025年〜) |
伝承から実物へ、実物から記録へ、記録から現代のコンテンツへ。
伯耆の歴史は「鉄と鬼と刀」で貫かれています。
この記事に出てくる天皇
| 天皇 | 時代 | 伯耆との関わり |
|---|---|---|
| 孝霊天皇(第7代) | 神話の時代(実在不明) | 鬼退治伝説の主人公。楽々福神社の祭神。桃太郎の原型説 |
| 後鳥羽上皇(第82代) | 1221年に隠岐へ流される | 出雲街道を通過した(承久の乱) |
| 後醍醐天皇(第96代) | 1333年に隠岐を脱出 | 御来屋に漂着、船上山で挙兵。伯耆で日本史が動いた |
参考文献:
- ベースデータ: 伯耆の歴史 総合リサーチ(2026-06-28)
- 八尾正己『刀匠伯耆安綱と童子切』(2025)
- 『太平記』巻第七 — 船上山の戦い、名和長年の挙兵
- 『梅松論』 — 北朝側の記録
- HoukiたたらNavi
- ※伝承と史実の区別がつかない場合はその旨を本文中に記しています