童子切安綱が斬ったとされる鬼 / 残された記録をたどる

おには、いつ となったのか。

伯耆生まれの国宝・童子切安綱が斬ったとされる鬼、酒呑童子。 歴史は、都合の悪いものから消えていきます。それでも残った記録がある。 その文言を引きながら、わかっていること・伝わっていること・そこから読み取れることに分けてたどります。

追われた者だったのか 現存最古は14世紀の絵巻 伯耆に残る舞台と痕跡

酒呑童子しゅてんどうじ

このページは、原典の文言を引きながら、そこから何が読み取れるかを示す形でまとめています。引用には出所と、原典画像まで確認できたものか/翻刻(活字に起こされたもの)からの引用かを添えました。読み取り方には、見解の違いが出ることもあります。
其の一

史料は、何と書いている

まず、残された記録そのものに当たります。「酒呑童子が実在した」という話ではありません。たどれるのは、鬼の物語が、いつ、どう書かれたか。古いものから順に開いていきます。

巻物をひらく案内人のうさぎと、覗く小鬼
案内人のうさぎが、巻物をひらきます。(語りの入口)

「我は是、酒を深く愛する者なり。然れば眷属等には酒天童子(と呼ばれる)」

大江山絵詞(おおえやまえことば)/南北朝・14世紀後半・逸翁美術館蔵。酒呑童子の物語で現存する最も古いもの。※翻刻からの引用(原典画像の逐字までは未確認)。

読み取れることこの絵巻のなかで童子は、退治される酒宴の席で自分の身の上を語ります。その語りによれば、もとは比叡山の一帯を治めていたが、そこに延暦寺が建てられ、追われた——とされます。つまり最も古い記録では、童子は生まれつきの鬼ではなく「住みかを追われた者」として描かれている、と読み取れます。

霧の山あいに立つ古い楠と、笠と蓑をまとい去りゆく旅人の後ろ姿
故郷を追われ、去りゆく者の後ろ姿として。(イメージ)

ひとくちメモ:「童子」って、なに?

「童子(どうじ)」は、もともと髪を結わない少年のこと。元服して髪を結い冠をつけると「大人」とされ、その前が童子です。お寺で仏典を学ぶ少年(稚児)や、不動明王に従う二童子も「童子」。そして大人なのに童形(少年の姿)のままの者は、ふつうの社会の外にいる印ともされ、鬼にも「茨木童子」「伊吹童子」のように童子の名がつきます。酒呑童子も、古い絵巻では美しい少年の姿で描かれます。「酒呑(酒天)」は、上の名乗り「酒を深く愛する者」から。つまり酒を好む、童形の者——それが酒呑童子、というわけです。

「此太刀ハ、伯耆国会見郡ニ大原五郎太夫安綱ト云鍛冶、一心清浄ノ誠ヲ至シ、鍛ヒ出シタル剣也」

太平記 巻第三十二「鬼丸鬼切事」/南北朝・14世紀後半。※原典(Wikisource所収の流布本)で確認。

読み取れること刀工・安綱を「伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱」とし、心を清らかにして鍛えたと記します。ここから、安綱が伯耆の鍛冶として書きとめられていたことが読み取れます。ただしこの巻が語るのは「鬼切」という刀の話で、酒呑童子も「童子切」という名も、まだ出てきません

「頼光夢想ニヨリテ是ヲ給リ、酒天童子ト云鬼ヲ切太刀也」

能阿弥本銘尽(のうあみぼん めいづくし)/文明15年=1483年の写し。※翻刻からの引用(福永酔剣ほかによる)。

読み取れること安綱の刀が「酒呑童子を斬った太刀」と結びつけて書かれる、知られているかぎり最も早い例とされます。ここから、刀と酒呑童子の結びつきは、安綱の時代ではなく室町期に書かれたものと読み取れます(→刀の名前が育つ過程は別ページ「童子切という名は、いつ生まれた?」)。

「丹州大江山に住す通力自在之山賊を頼光公此太刀にて討し故と申伝也」

享保名物帳(きょうほう めいぶつちょう)/1719年頃。徳川吉宗の命でまとめられた刀剣の台帳。※翻刻『詳註刀剣名物帳』により引用。東京国立博物館も、酒呑童子の伝説そのものが室町時代に生まれたものと説明しています。

読み取れること江戸時代には「大江山の酒呑童子を頼光がこの太刀で討った」という由来が、名物の刀として書きとめられていた、と読み取れます。

其の二

記録によって、食い違うこと

同じ酒呑童子でも、本によって・土地によって、言うことが違います。ひとつに決めず、どの記録がどう伝えているかを並べておきます。

鬼になった理由・生まれ

  • 大江山絵詞(14C)では — 比叡山を追われた、土地の主だった。
  • 伊吹童子(御伽草子)では — 近江の伊吹山に捨てられた子だった。
  • 越後(新潟)の地元の伝えでは — 美少年「外道丸」が娘たちの恋文を焼き、その煙が娘たちの怨念とともに彼を鬼の顔に変えた。※この話は古い絵巻には見えず、後の時代の地元の伝えとして語られるものです。

有名な道具・台詞

  • 「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」も、鬼の最期の言葉「鬼神に横道なきものを」も、現存最古の大江山絵詞には見えず、後の能「大江山」や御伽草子で書かれたものです。
  • 「鬼は嘘をつかない(横道なし)」という言い回しは、もともと『徒然草』にも見える古い言葉でした。

斬られた首の行方

  • 大江山絵詞では — 宣旨によって首を宇治の宝蔵に納めた、と記す。
  • 京都・老ノ坂の伝えでは — 道中で首が動かなくなり、その地に埋めた(首塚)、と伝わる。両者は別の伝えで、重なりません。

おもしろいのは、いちばんドラマチックな話ほど、新しかったり、その土地だけの伝えだったりすること。物語は、語り継がれるうちに育っていったようです。

墨で描いた、山あいにそびえる鬼の城の門
大江山に構えたという鬼の城。恐ろしさと、極楽めいた美しさが同居する棲み処として語られます。(イメージ)
暗闇のなか、斬られた鬼の首が武者の兜に噛みつく
斬られた首が、頼光の兜に噛みついたと伝わります。物語のクライマックス。(イメージ)
其の三

そこから、どんな物語が読み取れるか

ここからは、残された記録を踏まえて、わたしたちが何を想像できるか、という話です。最も古い絵巻が伝える酒呑童子は、住みかを追われ、流れ着いた先で「鬼」と呼ばれた者でした。

注意して読むと、酒呑童子を追ったのは比叡山であり、都の人々でした。伯耆ではありません。鬼住山の鬼を討ったのも、はるか古代の神話の話。つまり伯耆は、この物語で「誰かを追い出した側」ではない、と読み取れます。

伯耆は、「鬼を斬った刀」を生んだ土地であり、
同時に、「鬼と呼ばれた者」の物語も、
記録として手放さずに残してきた土地。

斬った側の刀(童子切安綱)と、斬られた側へのまなざし。その両方を持っている。鬼退治を「めでたしめでたし」で閉じず、「鬼とは何だったのか」と問い返せる余白がある——それは、けっこう豊かなことだと思うのです。

其の四

この物語に、歩いて触れられる

童子切の実物は東京国立博物館にあり、鬼を描いた古い縁起絵も、伯耆には残っていません。それでも、物語の舞台と痕跡は、いまも歩いて触れられる形で残っています。(アクセス・開園などは変わることがあります。お出かけ前に最新情報の確認を。)

鬼住山きずみやま

伯耆町・標高約326m

日本でも古い時代の鬼退治の伝えを持つ山。初心者向けのコースで往復1時間半ほど、山頂から伯耆大山が望めます。登山口の「鬼の伝承公園」は伯耆溝口駅から歩いてすぐ。

鍛刀伝承地の石碑たんとうでんしょうち

伯耆町 八郷大原(荒神ブロ)

刀工・安綱が槌を振ったと伝わる土地に「伯耆安綱鍛刀伝承地」の石碑。安綱の伝承地はほかにもあり、ここはその一つです。

都合山たたら跡つごうやま

日野町・鳥取県指定史跡

鬼の伝説も安綱の刀も支えた「砂鉄」の現場。石垣や高殿の跡が残り、ARアプリで当時の製鉄場が再現されます。

楽々福神社ささふくじんじゃ

伯耆町宮原・日南町宮内ほか

鬼住山伝説ゆかりの社。神社みずから、社名の由来を「ささ=砂鉄、ふく=たたらの吹子(送風)」と伝えています。

鬼の伝説も、鬼を斬った刀も、この神社の名前さえも、すべて日野川の砂鉄でつながっています。「鬼を斬った刀の産地が、鬼の伝説の町だった」——偶然ではなかったのかもしれません。

うさぎのひとこと:団子をあげる派のわたしとしては、追い出される前のこの子に、いちど団子を渡しに行きたかったな。鬼住山、こんど一緒に登る?

其の五

本物の絵巻を、見てみる

何百年も前に描かれた本物の絵巻が、いまはインターネットで無料で見られます。鬼の城も、酒宴も、退治の場面も、当時の絵師がどう描いたのか。

このページで引いた記録・参考
・大江山絵詞(逸翁美術館・デジタル絵巻)/ 高橋昌明『定本 酒呑童子の誕生』(岩波現代文庫)
・太平記 巻第三十二(Wikisource・原文)/ 能阿弥本銘尽(翻刻による)/ 享保名物帳=『詳註刀剣名物帳』(NDL)/ 太刀 銘安綱(名物童子切安綱)|e国宝・東京国立博物館
・樂樂福神社(社名の由来)/ 伯耆町観光(鬼住山)/ HoukiたたらNavi(安綱ゆかりの地)/ 都合山たたら跡(鳥取県指定史跡)
※出生・鬼になった理由・首の行方などは記録によって異なります。本ページは記録ごとに分けて示し、断定していません。鍛刀伝承地(八郷大原)も伝承地の一つです。

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